阿波藍の起源は不明ですが、西暦900年中ごろ、すでに藍の栽培を裏付ける記録が内記寮にあり「阿波国の藍を以て最勝とす」とあります。
戦国時代には、武士のよろい下を藍で染めるようになり、黒に近いほど深く濃く染められた藍色は「勝色(かちいろ)」と呼ばれ、縁起が良いとされて大変好まれていました。このころから藍の葉を発酵させた染料「すくも」の生産が本格的に始まります。
最も栄えた江戸時代には、藩主蜂須賀家政公の藍奨励策のもとに、吉野川流域での藍栽培が本格的に行われました。吉野川はたびたび氾濫を起こしていましたが、この氾濫が肥沃な土壌を生み出し、藍の栽培に適した環境となりました。こうして藍産地が形成され、阿波藍は全国を席巻し、藍商人の中には藍大尽(あいだいじん)と呼ばれる富豪が生まれるほどでした。
江戸時代中期には、木綿が多く生産され大衆衣料としても使われるようになり、その木綿を染めるため藍の需要が高まり、阿波藍の生産も飛躍的に伸びました。「阿波二十五万石・藍五十万石」と言われ、藩の石高の倍の規模があったとされています。
明治以降も藍作は盛んに行われ、特に徳島県は作付面積、生産量とも全国の過半数を占めていましたが、インドから良質で安価なインド藍が輸入され始め、また明治後期からは化学合成された人造藍の輸入が急速に増大し、藍づくりは衰退の一途をたどりました。
その後、昭和50年頃から、伝統工芸品や自然の手作り作品への人気の高まりなどもあり、郷土の伝統ある産業として見直されるようになるとともに、藍染め作品が注目されるようになりました。そしてそれを受けて藍栽培の面積も徐々に増加してきました。
そして現在徳島県では、東京オリンピック2020のマークに藍色が選定されたことを機に、阿波藍ブランドの新しいロゴを作成し、県下一体となって阿波藍の普及促進への様々な取り組みが行われています。