木竹工業

Mokutiku Kogyo

天正13年(1585)、阿波に入国した蜂須賀家政公は、水運の便がよく、自然の地形が活かせる新町川河口部の城山(現在の徳島市城山)に平山城を築き、「徳島城」と名付けました。徳島城を中心に、武家屋敷や商人、職人を住まわせた町を整備し、城下町が誕生しました。そして、徳島城下の東端(現在の渭東地区)に、藩経営にとって重要な水軍基地(安宅役所/あたけやくしょ)に置き、そこに約200人の船大工を住まわせ、軍船の造船や修理にあたらせたといわれます。船大工たちは、内職として船の残材を使ってもろぶた、炭箱、ちり取りなどの生活用品を作り始めますが、これが徳島の木工業の起源と言われています。

明治4年、廃藩によって船大工等は職を離れましたが、そのいくらかは、自らが持つ高度な技術を活かして、安宅物といわれる日用雑貨やタンス・針箱・雨戸や障子等の建具・桐下駄などの製作を本業とするようになりました。
その後、鏡台を中心とした家具、仏壇、建具と様々な木工製品へと展開していきます。
明治18年頃に安宅町を中心に鏡台の製造を始め、それ以来、鏡台の生産は拡大を続け、高度経済成長期に大きく販売を伸ばし、木工産地徳島の主要製品となりました。

鏡台を中心に、婚礼セットの家具としてタンス、応接セットのソファやテーブル、座卓や衝立等の銘木家具、床材、床柱など、和家具から洋家具まで様々な種類の家具の製造も伸びていきました。
多様な木工製品の一大産地として発展し、平成2年には県内の家具・装備品の出荷額1158億円となりました。
現在の徳島産地では、主力製品だった鏡台やタンスのから、住宅や商業施設、公共施設等の建築に付随するコントラクト家具へとシフトしています。また、座卓や床材のメーカーは一枚板テーブルや無垢の家具へ、鏡台の椅子メーカーは脚物家具メーカーへと業態を変え、それぞれの技術を活かして現代の市場ニーズに合わせた製品を作り、販売を伸ばしています。

徳島県木竹工業協同組合連合会

詳しくはこちら